34代川島英子著、饅頭屋繁盛記に戦前戦後の激動の時代の記述があります。
「私どもの戦前までの商売は、主に宮内省の御用を賜る他に、宮様方、諸官庁、軍部関係のご注文と、また大きな料亭などのご注文を受けて、必要な日にちと時間に合わせておつくりした和菓子をお納めするというかたちで商売をしてきました。それだけでも、とても注文数が多かったため、商売としては十分成り立ち、繁盛を続けておりました。
三島由紀夫先生の小説『仮面の告白』(1949年)を読みますと、とくに内容に深く関わるわけではないのですが、塩瀬総本家が出てまいります。主人公が通う学校の式日の様子が描かれたくだりに、式日の「かえりに貰う塩瀬の菓子折」と書かれておりました。この作品は半自叙伝的なものであると言われていることから、三島由紀夫先生が通った学習院では、式日には塩瀬の御菓子を配るのが定番であったことがわかります。
やがて太平洋戦争が始まりました。戦時中の塩瀬総本家では、なんと学校給食用のコッペパンづくりも行ったことがございます。近辺にパン屋がなかったからでしょうか、塩瀬には焼き窯がありましたから、依頼されたのだろうと思います。材料は、役所から届けられました。
そして、塩瀬の工場の隣には、空襲に備えて逃げ込めるよう従業員が掘った防空壕がありました。ふだんは、防空壕の蓋のうえに土をかぶせ、そこを小さな野菜畑にしていました。当時どこの家も各々が防空壕を持っていたのです。空襲警報が聞こえてくると、すぐにパンづくりの手を止めて、こねていた生地に蓋をかぶせて避難しました。父、母、お手伝いさん、従業員五、六名と私、妹がおりましたから防空壕はそれだけの人数が収まるくらいの深さがあり、はしごがとりつけてあるといった規模の大きいものでした。
空襲警報が解除され工場に戻りますと、父や職人たちは口々に、「これじゃあ、全くだめだ」と大声で唸ったものでした。イースト菌の作用により、パンの生地がすっかり発酵して膨れ上がり、たらーんと蓋からもはみだしているのでした。仕方がないので、皆で再び生地をこねはじめる、ということがよくありました。
戦争といって思い出すのは、海軍の軍人、山本五十六元帥のことです。あるとき乗ったタクシーの運転手が山本元帥の書いた書籍を読んだことがあるという話をしてくださいました。そのなかで、「戦地で塩瀬さんの羊羹をお茶と一緒にいただくのがなによりのたのしみだった」と書いてあったそうなのです。艤かに、山本元帥は戦地から戻ってくると、真っ先に塩瀬にいらして、「夜の梅(小倉羊羹の商品名)を好んでたくさんお求めになって帰られたのをよく覚えております。
その時分には、山本元帥の為書きで、「塩瀬の主人へ」という掛け軸と額がありました。山本元帥が国葬された時、元帥を慕う隣組の人たちがたくさん塩瀬にいらっしやって、掛け軸と額を見せてくださいと部屋に上がりこみ、ひたすら直筆の文字を拝んでいました。
昭和20年、終戦を迎えると、世の中は一変しました。宮内省の御用はなくなる、軍隊もなくなる。宮家からの注文もなくなりました。砂糖などの材料も全く手に入らない時代になってしまいました。日本は身分を問わず、皆が貧しくなりました。亀次郎は御菓子そのものに対する思いが非常に強かったため、頻繁にさまざまな業者から勧誘や人工甘味料のサッカリンを使っての商品をつくらないかとの提案などを寄せられましたが、「まがい物はつくらない」といってすべて断っておりました。デパートから引き合いがあった際も、「店ざらしで菓子が売れるか」といって取り付く島がない断りをしていました。父のその強さ、頑なさに、母は苦労をしておりましたが、私は尊敬の念を感じておりました。
亀次郎は材料が手に入り、準備が整うまでの間、二年間ほどは塩瀬の御菓子をつくらず、待機しながら暮らしていました。そうして待機しながら、ひっそりと塩瀬の暖簾を守り続けていたのです。やがて世の中に復輿の兆しがみえはじめると、それに伴って塩瀬も少しずつ盛り返していきました。」
戦前の塩瀬総本家の様子
また、朝日新聞より34代川島英子が取材を受け「昭和そのとき」という連載ぺージが設けられました。次のストーリーではその記事に触れたいと思います。