2.饅頭と杭州市の点心街

【古代 ~宋】諸葛孔明と饅頭
2.饅頭と杭州市の点心街

杭州市西湖の風景

 

諸葛孔明が残した饅頭は後に点心となって広まり、各地に点心街が作られました。点心とは僧侶が長いお経を読む間に少し食べるおやつのこと。そのおやつははじめ一点と呼ばれましたが後に一点に心を込める意味合いで点心と呼ばれるようになりました。

 

現在の杭州市には宋の時代より続く点心街が存在します。塩瀬始祖の林浄因のおじいさんはこの点心街で宋の時代饅頭屋を営んでいました。

 

昭和63年11月、日本テレビで嵐山光三郎氏がレポーターとなった「謎学の旅-追跡日本最古のまんじゅう物語」が放映され、嵐山光三郎氏と塩瀬34代川島英子がこの杭州市の点心街を訪れました。現地杭州大学の林正秋教授への取材によると、宋の時代には饅頭は二種類あり、一つは小麦だけで中になにも入っていないもの。もう一つは中に肉がはいっているものの二つでした。林浄因が日本に行って初めて小豆が入った甘い餡を入れるまで、小豆を入れた甘い饅頭というのはそれまで中国にはなく、林浄因のオリジナルの発明品だったということができる、ということがこのとき明らかになったのです。

 

林浄因が日本で小豆餡入りの饅頭を生み出した背景には、饅頭に慣れ親しんだふるさとの環境がありました。

 

この宋朝時代(960-1279)は中国において生産の拡大と生活の向上の時代でした。揚子江のデルタ地帯では農業が発達し、特に稲麦の二毛作技術が進み、茶の栽培も盛んになって飲茶は日常の風習となっていました。その一方宋末期には野性の国の元に滅ぼされ、民族戦の混乱による社会不安に巻き込まれました。それを逃れて帰国する日本留学生も多くなり、また亡命してくる文化人もありました。その中に日本からの留学僧竜山徳見と宋人林浄因の姿があったのです。

 

饅頭の物語はこの二人へと続いていきます。

 

 

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