1.饅頭伝来 二人の男の物語

【中世 室町】饅頭伝来
1.饅頭伝来 二人の男の物語

京都建仁寺の風景

日本の饅頭ここに始まる。歴史的道しるべを打ち立てた二人の人物がいました。一人は龍山徳見(りゅうざんとっけん)禅師、もう一人は名を林浄因(りんじょういん)といいました。

 

龍山徳見は下総の人で、幼いころは鎌倉寿福寺に従事。嘉元3年(1305)に元に渡って臨済の宗学を学び、貞和5年(1349)に帰国しました。出国時22歳だった彼は66歳になり、足利直義(1306-52)に命じられて建仁寺35世に、また足利尊氏(1305-58)の乞いに応じて南禅寺24世、天竜寺6世となり、公・武・庶あらゆる階層の尊敬を受けた人物でした。1358年足利尊氏が亡くなった際には遺骸の棺の蓋を閉じる役目も担いました。

 

龍山徳見禅師肖像画

 

 40年ほどの留学の中で、徳見の人柄と見識にこころを打たれた浄因は、彼に対する思いが非常に強く、二人の仲は浅からぬものであったと伝えられます。

 

彼らの来日は、日本の教科書の基礎資料ともなっている「園太暦(えんたいりゃく)」や浄因の子以倫が記した「黄籠十世録」から1349年と判明しており、この年を塩瀬では設立の年としています。

 

彼らが来朝したころの日本は南北朝時代で、足利尊氏が征夷大将軍となっていました。この時代の元と日本の関係は「弘安の役」によって険悪な情勢であったとされますが、禅僧の語録等によると日元間の通行は頻繁であったようです。

 

「日華文化交流史」には中国からの入元僧の足跡が記されており、中でも山の項には、

 

「我が国の饅頭は入元僧の一員であった山徳見の伝えたものだと言われている。龍山徳見の在元中の俗弟子に林浄因というものがあって、徳見が帰朝する際にこれに従って来朝し、後に氏を塩瀬と改め、奈良に住して中国風の饅頭を制し奈良饅頭といったが、これがのちの京都烏丸の塩瀬の祖である」

 

と述べられています。

 

林浄因肖像画


浄因は当時尊氏と直義との間で政情不安があった京都を避け、離れた仏都奈良二条の林小路に居を定めました。当時の奈良は仏都であるとともに、食糧、生活用品、武具等の商工業の座が80もあって経済活動も盛んであり、また帰化人も多く住んでいました。浄因はこの地で商いを始めたのです。

 

「日華文化交流史」によれば当時の禅宗寺院は宗教学問だけでなく、上流階級の社交場となっており、栄西禅師が宋から茶飲みを伝え「喫茶養生記」を記して以来、修禅の際の睡魔を除く方法として、また養生の術として喫茶の風習が広まっていた時代でした。唐様の茶会や茶寄合と称して多数の人が会合したり様々な催しが流行しました。

「喫茶往来」「禅林小歌」によると、茶会ではまず点心がふるまわれました。この点心は柿や栗の干したものや小麦粉に米粉をこねて蒸した羹や麺が中心で、小豆も赤飯にしたり汁物にして食べていました。

 

この時、林浄因は奈良で中国のマントウにヒントを得て「饅頭」づくりを始めました。肉や油の入ったものでは禅僧には適さない為、小豆を煮詰めて甘葛の甘味と塩の味を加えて餡を作り、これを皮で包んで蒸上げ、餡入りの饅頭として卸したのです。甘葛煎(あまずらせん)とは蔓甘茶を原料とし、茎の汁をとり煎じて食物に甘味をつけるもので砂糖が普及しはじめる以前の甘味料でした。

 

徳見の手伝いもあり当時は薬として一般には手に入らなかった甘味と宮中で出会い、これが今日日本人がよく知る、初めての甘い餡、初めての饅頭となりました。浄因の饅頭は奈良で売り出された饅頭だったので、「奈良饅頭」と呼ばれ、小麦の発酵した香り、ふわふわとした皮の柔らかさ、艶やかさ、そして小豆餡のほのかな甘さなど、饅頭は当時としては画期的なお菓子で、大好評を得たのでした。

 

この出来事について、「南都名産文集」には

 

「饅頭 太古蒸菓子干菓子の別れさる時一つの物なる状ち鶏子半片のごとし 白きものはめくりて皮となり黒きものは包て杏となる 千時太釜のうなハらに蒸籠の浮橋して白雲の中に化生佳味を甘味中蒸饅頭と申奉る饅頭此ヲハ摩武知(マムチウ)と謂 一書曰く古建仁寺第二世龍山禅師入宋之時ニ中華人林和靖の末裔の林浄因は弟子の礼を執る斯人中華に於いて饅頭を製造す元の順宗至正元年龍山本朝に帰る日林浄因も相従て来り本朝に在り氏を塩瀬と改め南都に住し之を製す其形状片団是を奈良饅頭と称ス是本朝饅頭之始也 中華に於いては諸葛孔明より始まれり 紅粉をもって饅頭の中央に林の文字を書家名の証とし侍る」

 

と饅頭の絵入りで紹介されており、当時の浄因の奈良饅頭が奈良で名産品となっていたことや、形や味までうかがい知ることができます。「片団」片側が扁平でもう一面は膨れ上がる今と同じ形状であるとわかります。

 

また奈良奉行の記録「奈良玉井家文章」には

「〈内庁中没録〉「饅頭 饅頭為奈良土産其来尚其古山城国愛后郡愛后建仁禅寺第二世龍山禅師入宋之時中華人林和靖末裔林浄因執二弟子ノ禮ヲ斯ノ人於中華製造饅頭ノ元 順宗至正元年龍山帰本朝日林浄因相従来至正元年者當 本異光明院ノ暦應四年林浄因在南都朝改氏塩瀬始メ住ミ南都ニ製饅頭其ノ形状片団是称ス奈良饅頭ト是本饅頭之始也

 

とも記載されています。

 

『雍州府志』巻六「土産門 上 饅頭 」 にも

「其形状片團是稱奈良饅頭」「饅頭外皮貴精白内杏重甘羹凡饅頭并餅納砂糖并赤小豆粉」(白い皮で、赤小豆粉に砂糖を加えたものが中身であった)

 

とあり、小豆餡が用いられたことがわかります。

 

また、建仁寺両足院には、林一族や、当時の饅頭街の人々が記した多くの古文書が残されており、「長林学説」「林先祖林浄因」「饅頭の営み」「林和靖氏浄因」「饅頭街累代先亡各霊」などなど、他にも多岐にわたるエビデンスが残されています。

 

浄因の饅頭は、徳見の仲介により公家の手を経て後村上天皇に献上されるまでになりました。後村上天皇は大変に饅頭を喜んだため、林浄因はしばしば宮中に上がるようになっていました。天皇は林浄因を寵遇し、宮女を賜りました。かつては、政略ばかりでなく、特別な恩賞として婦人を下賜されたとう例がありましたが、武将ではない一商人のもとへ宮女を下賜されるということはとても珍しく、特別の栄誉でした。浄因はその後二男二女の子供を授かりました。

 

物語はその浄因の子供たちへと続いていくのです。

  

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