杭州 西湖の夜景
饅頭の発祥について塩瀬饅頭が一般化した理由の一つとして、林和靖の存在が挙げられます。林和靖は塩瀬初代林浄因の先祖にあたり、中国でも有数の詩人で、日本文学会にも多大な影響を及ぼした人物でした。
彼は杭州西湖の北の小島孤山に隠棲し、「つねに曰く鶴を子とし、梅を妻とするとかや」(田宮仲伸「愚雑俎」)というように、鶴と梅をこよなく愛し、その日本人の好みに合ったストーリーは、詩題にも画題にもよく取り上げられました。
林羅山の「梅村載筆」や西鶴の「日本永代蔵」松尾芭蕉の「野ざらし紀行」、横山大観の「放鶴」(明治四五年)等多くの作品のモチーフになりました。
また、幕府の御用絵師によって江戸城内のふすまにも林和靖が描かれていました。林和靖が描かれた江戸城の中奥(将軍の公邸)は「和靖の間」と呼ばれ、維新直後の明治政府には「林和靖間所」という職制があり、旧議奏商量の事務がこの間で行なわれたといいます。(明治元年3月8日に置き、宮中の林和靖の間に出仕し、旧議奏商量の事務を管せしめたる職。同年4月21日に廃されたり)
古文書に塩瀬の記載がある際は林浄因と共に林和靖の名前が出てくることも多く、塩瀬饅頭の遠祖は林和靖だということが人々の間で理解されていたことが伺えます。
以上見てきたように林和靖の末裔ということで浄因の奈良饅頭、そして林一族は話題として十分なアピール力があったということができるのです。
林浄因を親しみをもって作られた創作と思われる話も伝わっています。
(饅頭博物誌(松崎寛雄著)より)
奈良饅頭の繁盛を妬んだ同業が「成り上がりの饅頭屋」というと、浄因は「イエ、先祖は摂津守多田満仲」と答えて返したというものです。源満仲(912~97)は源氏の祖、大江山鬼退治の源頼光の父であり、まんじゅうと満仲という名前を掛けたシャレでありました。とっさにこのような切り替えしができたというような親しみがわくような人物であったということでしょうか。
林和靖、林浄因がともに日本人に広く受け入れられていたということが伺えるエピソードでした。