中国 成都 三国志の聖地武侯祠の風景
日本人が慣れ親しんだ、甘い小豆餡がはいったふかふかの饅頭。一口食べれば思わず笑顔がこぼれます。この饅頭。はじまりはどのようにして生まれたのでしょうか。そして、よくよく見ると、饅頭には頭の漢字が使われています。いったいなぜ。
饅頭の由来は実は諸葛孔明までさかのぼります。英雄諸葛孔明と饅頭。一体どのような関係だったのでしょうか?
諸葛孔明(181-234)と言えば三国志の時代。日本では卑弥呼の時代です。現在の武漢から西に400キロ。そこに諸葛孔明が生まれ育った襄陽(じょうよう)があります。南北に漢水という大河が流れ当時の中国の真ん中に位置し、軍事的な要所として襄陽は取ったり取られたりが繰り返されていました。孔明が生きた時代はまさに戦いの時代だったのです。
劉備が孔明を獲得する為、三顧の礼が行われた「三顧堂」の近くには諸葛孔明が耕したとされる田んぼが残されており、当時麦や稲が耕されていました。清の雍正帝(ようせいてい)の時代の書物「古今図書集成百科事典」により小麦は紀元前から耕されていたことがわかっており、また同じく紀元前殷の時代には青銅製の蒸器が存在しています。小麦があり蒸し器があり、孔明の時代には饅頭が作りだせる環境が整っていたことになります。
400年続いた漢王朝が倒れようとする動乱のさなか、劉備のブレーンとなった孔明は天下三分の計、すなわち国を3国に分け、その中の蜀を治めようと考えました。現在の四川省のあたりが蜀にあたります。
ある時、孔明は南部遠征の帰り、濾水(ろすい)という川が氾濫し帰るに帰れない状況となってしまいました。この時の出来事について孔明の歴史が書かれている書物「諸葛亮集」に記載があります。
孔明の軍が南方を平定し帰る際に強風が吹き荒れ、濾水が氾濫。地元の門番に尋ねると、この地は蛮地で邪気が多く、49人の首を切り、祀るという言い伝えがあるとのことでした。しかし孔明は自分の部下を殺すことが忍びなかった。その代わりにと小麦をこね、牛と羊の肉をいれ、人の頭の形として川に祀りました。翌日氾濫は収まり、孔明とその部下は無事に濾水を渡ることができたのでした。(49の数字の意味合いは、日本でも49日と言いますが、仏教において亡くなった人が次の生をうけるまでの中間の期間を意味する数字です。)古代中国の儀式では牛や羊の頭が供えられたという古事があり、孔明もその古事を取り入れたと考えられています。
孔明がこの饅頭のもとになったものを作った際はまだ名前がありませんでしたが、のちに三国志のもとになった羅漢中作「三国演義」で転載される際に、蛮地で作った蛮人の頭という意味で蛮頭と表現されるようになりました。実は中国ではこの「蛮」と「饅」という字は同じ「マン」という発音です。その後、蛮頭は供えた後、食べるようになったことから饅という字が当てられ、饅頭「マントウ」という言葉が広がっていくことになったのです。
諸葛孔明が残した饅頭は後に点心となって広まり、各地に点心街が作られました。現在の杭州市には宋の時代より続く点心街が存在します。この点心街へと物語は続いていくのです。