3.司馬遼太郎と林浄因

【中世 室町】饅頭伝来
3.司馬遼太郎と林浄因

「発掘!司馬遼太郎20代の幻の習作」。こんな記事が平成8年(1996年)11月の「週刊朝日」に掲載されました。なんと司馬遼太郎先生の遺稿に塩瀬先祖林浄因の事が書かれた短編小説があったというのです。

 

司馬先生の22~28歳という時代は一般には空白の期間とされ、出版各社の年表に発表作品の記載がないのですが、先生の熱烈なファンの方がその間の習作を掘り起こされたということでした。

 

小説が書かれたのは、司馬先生が京都で新聞記者生活を送っていた時代で、本名福田定一の名前で、浄土真宗本願寺派(西本願寺)が創刊した『ブディスト・マガジン』という機関誌に八作品を発表していました。その雑誌はアカデミックすぎたためか、あまり売れず、時間が経つにつれて忘れられてしまった、と『週刊朝日』には書かれています。

 

林浄因のことが書かれていた短編小説は、その八作品のうちのひとつで、タイトルは「饅頭伝来記」とありました。読者を引き込まずにはおかない語り口で、驚いたことには、いくつかの史実が忠実に書かれていたのでした。林浄因が龍山徳見について中国からやってきたこと、林浄因が奈良に居を構えたこと、天皇に気に入られて宮女を賜ったこと、龍山徳見が亡くなってから中国へ帰ったこと、これらの史実を柱として創られていました。

 

小説の終盤、林浄因が饅頭をつくり、子供たちに配ります。饅頭は子供たちによって「あもうござる。浄因さんのまんじゅは唐渡り」と歌われました。また、尊氏より献上された浄因の饅頭を食べた帝は大いに驚き、司馬先生は、「大変なものをもたらした男ではある。我々は、甘いものといえば、木の果しか知らなかったが、この男は、(中略)大きくいえば、日本の食物の歴史に―つの革命をあたえたわけだ」と語りました。

 

史実の大筋に沿って進んでいくストーリー展開には、さもありなんと思わせるところがあるのが、さすがは司馬先生。林浄因が日本に来たときの生活ぶりや、また、林浄因が天皇から賜った宮女と気が合わなかったなどと書かれているのを読むと、なるほど、宮女とは概して気位が高いのであろうから、そうだったかもしれないと納得してしまうほど、非常にうまく描写されています。

 

小説の最後には、「浄因が、日本に遺した子供たちの一人は、その後、京で菓子司となって、饅頭の技術を伝承し、いまにいたるまで中京に饅頭屋町の町名を遺したが、元禄のころ系譜が絶えた」と、締めくくられていました。実際には両足院の古文書、また家系図より、林宗儒(そうじゅ)という人物が江戸に渡り御菓子処を営み塩瀬総本家となる為、系譜は絶えてはいないのですが、両足院の古文書までは取材できなかったということでしょうか。

 

史実を用いながら、林浄因という人物像とその生き方におもしろみを加え、人情味あふれる龍山徳見との人間関係を描き出し、いきいきとした情趣にみちた世界が繰り広げられています。「饅頭伝来記」というタイトルに感じられる硬さのようなものはなく、軟らかなタッチで書かれた司馬先生特有のロマンあふれる小説でした。

 

 

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