1.京都「塩瀬」と饅頭屋町の誕生。信長、光秀、秀吉、そして家康と

【中世 室町〜桃山】饅頭は広がる
1.京都「塩瀬」と饅頭屋町の誕生。信長、光秀、秀吉、そして家康と

秋の建仁寺

林家は後に奈良と京都に分かれ、京都の一族は塩瀬を名乗るようになりました。この京都の一族が饅頭屋を商っていた場所は今でも「饅頭屋町」という地名として現在の地図でも確認することができます。

 

中世の京都では、道路を挟んだ両側の店舗が結束し、町を構成したといいます。町内の構成員を町衆や町人といい、中世後期になると、町衆は町内に家を持ち、当番制の世話役を行うといった一定の義務と権利を持って町の防衛も行ったというのです。応仁の乱以後は、こうした町が集まって町組(ちょうぐみ)が結成され、自治的な性格を強めました。町組の運営に当たった町衆は、酒屋や土倉(どそう)といった財力のある商工業者で町組は大きな力を持つようになるのです。

このころになると京都塩瀬北家の饅頭屋の周辺に饅頭屋町と呼ばれる町が現れました。戦後の区画整理でなくなってしまいましたが、戦前の地図「京都市の地名」という本で確かめてみると、饅頭屋町は現在でいうところの住所「京都市中京区烏丸通三条下ル」、南北に通る烏丸通りを挟む両側の町であったことがわかります。三井住友銀行があった場所が塩瀬の屋敷跡です。天正15年(1571)の「饅頭町文書」によれば西側に23戸、東側に14戸の家並みが認められます。こうした店舗が結束し生活共同体となったのです。

 

 

 

 

時は流れ、織田信長が天下統一に乗り出し、明智光秀が信長の重臣となっていたころ、光秀は京都奉行を務めて行政手腕を発揮していました。じつはこの饅頭屋町も明智光秀の管轄でした。制度が発せられる度発行される布告「信長布告」「銭ノ制定」「明智光秀ヨリ三日以内に田地指出スベシ」といった文書を、饅頭屋町の町衆であった塩瀬が受け取っていました。こうした布告(発令書)の類も、書簡として保存されています。

 

塩瀬は饅頭を信長や光秀に献上し、さらに豊臣秀吉にも塩瀬饅頭は好まれていました。両足院所蔵の古文書「林和靖氏、浄因」の項では、一族の林紹絆(しょうはん)が中国に渡り製菓を学んだあと、日本に帰り塩瀬村に住んで姓を塩瀬と改めたこと。その後、子孫の道徹、林宗味の代に、太閤秀吉の寵愛を受け、出入りを許された」ということが記録されています。

 

この京都塩瀬が信長や秀吉と親交を深めていた頃、奈良の塩瀬は徳川家康と親交を深めました。その時の奈良塩瀬の当主、林宗二(そうに)は林浄因の7世の孫で「南都名産文集」に見られるとおり奈良に店を構え本饅頭を徳川家康に献上し、ゆくゆくは江戸幕府御用として塩瀬が抜擢されるまでになります。

 

 このように、塩瀬は信長、光秀、秀吉、そして家康と、戦国時代から天下統一へと向かう時代の主役たちと交差しながら生きてきたのでした。

 

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