もっと詳しく知りたい方へ)鎌倉時代にもたらされたとされる饅頭との違い

【中世 室町】饅頭伝来
もっと詳しく知りたい方へ)鎌倉時代にもたらされたとされる饅頭との違い

饅頭は蜀の諸葛孔明が考え出したものというは古くから様々な文献にて言い伝えられています。その饅頭(マントウ)は時代を経て僧侶が食べる点心となった為に、現在の中国では中に何も入っていない点心の事を指すようになりました。肉の入ったものは「包子(パオズ)」と呼ばれるようになったのです。宋の時代には饅頭(マントウ)には肉の入っているものと入っていないものの2種類がありました。

 

鎌倉時代には日本に、この何も入っていない饅頭(マントウ)らしいものが伝来していたとされる文献が見つかっています。

 

「吾妻鑑」第13巻に「建久四年(1193)五月十六日、源頼朝が富士の巻狩において長子頼家が鹿を射当て、その晩餅を供えて山神を祭り、将士、踏馬勢子の輩を召して各々十字を賜ひ列卒を励まさる」とります。この十字が饅頭(マントウ)だとするものです。

 

また、『晋書』巻三十三何曽伝に「性奢豪、務めて華に在り、帷帳車服、綺麗を窮極す。厨膳滋味、王者に過ぐ燕見する毎に大官の設くる所のものを食せず。帝すなわち命じて其の食を取る。蒸餅の上折いて十字を作らざるものは食せず」にも十字が存在し、もちの上に小刀で十文字形に切目を入れて食べたもので、蒸餅のことを十字と呼ぶようになり、蒸餅は米粉を醜で蒸して作った饅頭もちである。ということです。

 

また、伊勢貞頼(入道宗五)『宗五大草紙』に饅頭をたべるときの作法を述べています。これによれば
「饅頭には垂味噌の汁が添えて出された。素麺、蒸麦、羊羹の類にも汁を添えた。饅頭に添える汁には、粉と切物(きりもの)、粉には山椒の粉、肉桂の粉、胡椒の粉、添える汁は、粉切物を入れた、辛し粉などがあり。切物は柚の皮、蜜柑の皮、紫蘇の葉、蓼の葉、著荷の子などを細かに切り刻んだものである。これらの粉と切物を一色、二色でも味噌汁の椀に入れて、饅頭のサイ(菜)にしたのである。サイはそえ(添え)が転じたもので主食に添える副食物である。」

 

この十字/饅頭については餡に相当するような記述がなく、中になにも入っていないということ、さらに、汁をつけて食べる主食のようなものだということが明らかです。特に、現在日本で慣れ親しんだ甘い小豆餡が入った饅頭(まんじゅう)とは異なる、と明確にいうことが出来ます。

 

また、昭和63年11月、日本テレビで嵐山光三郎氏がレポーターとなった「謎学の旅-追跡日本最古のまんじゅう物語」が放映され、嵐山光三郎氏と塩瀬34代川島英子がこの杭州市の点心街を訪れました。現地杭州大学の林正秋教授への取材によると、宋の時代には饅頭は二種類あり、一つは小麦だけで中になにも入っていないもの。もう一つは中に肉がはいっているものの二つでした。林浄因が日本に行って初めて小豆が入った甘い餡を入れるまで、小豆を入れた甘い饅頭というのはそれまで中国にはなく、林浄因のオリジナルの発明品だったということができる、ということがこのとき明らかになったのです。

 

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