もっと詳しく知りたい方へ)賀茂真淵の弟子「林諸鳥」

【近世 江戸】和菓子革命
もっと詳しく知りたい方へ)賀茂真淵の弟子「林諸鳥」
日金山頂 林諸鳥らが書いた石碑と34代川島英子
江戸時代も中期になると、学問の担い手には公家、武家以外の身分の者たちが登場してきたようです。とくに、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』など、仏教や儒教の伝来前の外国文化の影響を受けていない文献を考証学的方法で研究して、日本民族固有の精神である「古道」を追究しようとした「国学」派では、神官や町人身分の者たちが担い手となっていました。

 

 

国学の創始者と言われる荷田春満(かだのあずままろ)は、京都伏見稲荷神社の神官の子として生まれました。荷田の学問は遠江国伊場村の賀茂神宮神職岡部家の分家に生まれた賀茂真淵によって確立し、その弟子である伊勢国松坂の木綿商小津家に生まれた本居宣長によって大成されました。

 

この国学の担い手の一人として、京橋塩瀬の当主であった林諸鳥(1720-94)がいたのです。通称は「塩瀬和助」といい、賀茂真淵の弟子でした。「門弟録」を調べると、確かに「和助」という林諸鳥の呼び名があります。
師であった賀茂真淵は、『古事記』、『万葉集』や祝詞(のりと)の研究を中心に古道を解き明かすことに懸命でした。その師の教えを受けた林諸鳥は律令に詳しく、詠歌を能<し長歌に巧みであったと書かれており、歌集に『続采藩編』、『千種の花』、『近葉菅根集』など、編者に『紀記斑集』、『古人五百首』、『紀氏六帳抄』、『三代八百首』を著しました。大名家などにも出入して、国学を講じていたことが伝えられています。

 

佐佐木信綱の『ある老歌人の思ひ出』に藤原葛満の『熱海日記』に触れた条があり、そこで「日金山頂の十国五島の説明の石の碑の図がある。それによると天明三年八月林諸鳥らが書いたもので、諸鳥は江戸の菓子舗塩瀬の主人ながら賀茂真淵の門に入り、紀記歌集二冊を出版し、葛飾の別荘には万葉集の葛飾の歌の日を建てる等した風流人である。日金山へはいつか行って碑を見たいと思いつつ、まだ行かずにいる」と述べています。



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