「風俗画報」100号記念号(明治28年) より 歌舞伎座柿色三枡格子と興奮する江戸の客席。当時塩瀬の引幕が宣伝となり袖ヶ浦最中が飛ぶように売れました
この時代のタイトルに〇〇〇とつけたのは、安定した江戸時代と異なり、激動の時代であった明治を生き抜いた明治塩瀬は、洋菓子含めて色々なお菓子の可能性にチャレンジし、特定のお菓子のタイトルを付けられなかったこと、そしてビリヤード場の経営にも携わっていたことからビリヤードの球をもじったというのがいきさつです。
さて、明治の塩瀬について、宮内庁御用達の歴史(倉林正次監修)に記載があります。
宮内省ご用達許可書制度の発足は明治24年のことで、一覧表に明治32年菓子商仁木準三と書かれており、菓子商としては風月堂の米津恒二郎氏と並んで最初である(仁木は明治2年より、江戸時代より引き続き城中へ出入りしていた)と記載されています。
また当時の塩瀬は新聞にもよく広告を出しており、新たなお菓子を宣伝し、その数も多く独創性もあったことから「新菓の親玉」と新聞でも称されました。
当時の朝日新聞、読売新聞を見ると塩瀬の広告を度々目にすることができます。例えば、明治19年には「珈琲落雁」を、25年には「柿餡のかすていら」と鉄道旅行や船旅に便利な「碁石型の瓦せんべい」を。26年には役者の「紋入りゆひわせんべい」を、27年5月には道明寺製「幕の内」、同年7月には「吉備団子」、11月には「カステラ製奉天麩」。28年1月には分捕つや絹と容器を砲丸に模した「北京落雁」。2月には「なぞなぞ一口最中」を発売し、「新菓の親玉」と称されました。
また、明治24年、現在の塩瀬でも取り扱う袖ヶ浦最中を発売しました。柿色三枡格子の意匠を用いた最中は九代目市川団十郎に銘を受けたもので明治28年に歌舞伎座で「暫」が演ぜられたとき、巨大な袖の柄の縁で引幕をおくると、それがまた宣伝となって最中が売れるということもあり、団十郎最中と称されて、餡詰め要因として女子20人を募集するようなこともありました。(朝日新聞、読売新聞より)
こうして、各々明治の新聞記事に見られるようにこの時代の塩瀬は、コーヒーやカステラ、旅に芝居に戦勝などといった新しいテーマのデザインや題材を取り込み、新聞といったメディアを通じて発信していったのでした。
「福沢手帖」福沢諭吉教会 第166号 明治数寄屋河岸塩瀬 前坊 洋氏 寄稿記事参考