2.着物で有名な塩瀬生地の由来

【中世 室町〜桃山】お茶との出会い
2.着物で有名な塩瀬生地の由来
現在「塩瀬」でキーワード検索をすると、着物の塩瀬生地が多数ヒットします。それほど一般的に普及した塩瀬生地。実はこの塩瀬生地、宗味の塩瀬袱紗が由来となっています。

 

明治45年(1907)刊行された久保田米倦著の『茶の湯の心得』によれば

 

「服紗、羽二重絹、又は塩瀬絹にして雪吹は九寸四分、九寸五分に一尺、又は一尺五分に一尺一寸にても宜ろし。現今一般に用ゆる服紗は鯨にて縫上げ、寸法竪七寸五分横七寸、又古の紗は大の方鯨にて縫上げ竪四寸五分横四寸、小の方竪三寸五分横三寸也。

男子は紫或は松葉色を用ゐ、林輸靖(和靖の誤り)女子は緋色を用ゆ。の末孫にて、栄西禅師(龍山徳見の誤り)に随従して来朝し、日本に帰化し奈良に住し、姓を塩瀬と称して(後の代に変わった)足利氏の時代に饅頭をひさぎ居りしが、それより後京都鳥丸三条の南に移り、当時の人を塩瀬九郎右衛門と称し、猶ほ饅頭をひさぎ居りその町名を饅頭屋町と称す。

 

この家より分家していでたるもの、江戸日本橋に出店し、徳川氏の饅頭の御用を聞き、殊に芝増上寺の黒本尊に献ずる饅頭を調達したのである。この家にて紗を製造したるを以て塩瀬帛紗の称あり、当今羽織地に見る塩瀬織といへるは是から来たのである。
と掲載されています。

 

江戸時代、「江戸買物獨案内」「林氏塩瀬山城博来記」に紹介されているとおり、京都塩瀬最後の人、塩瀬九郎右衛門の時代には塩瀬は袱紗屋も営んでおり、袱紗として包みものにも対応していた丈夫な折り方、そして紫色の塩瀬の生地は後に着物生地として広がっていくことになったのです。

 

 

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