1.江戸へ向かった塩瀬、将軍家御用達となる

【近世 江戸】和菓子革命
1.江戸へ向かった塩瀬、将軍家御用達となる
京都で饅頭屋が繁盛する一方で、その塩瀬一族より江戸に下り、新たに塩瀬饅頭ののれんを構えた人物がいました。その名は、宗需(そうじゅ)といいました。両足院所蔵の古文書「林和靖氏、浄因」の項に、宗味の後代宗需の一族が江戸に進出したことが書かれています。

 

また、「饅頭街累代先亡各霊」の項には、江戸塩瀬の先祖である宗需が万治二(1659)年3月10日に死亡と書かれています。宗需が亡くなったのが、一六五九年とあるので、当然、それ以前に塩瀬は江戸でまんじゅう屋を営んでいたことがわかります。

 

1600年代は、大店がたくさん江戸に進出していた時期でした。例えば、平成11(1999)年に閉店してしまった東急百貨店日本橋店の前身であった白木屋が、大村彦太郎によって寛文二(1662)年に江戸で創業し、小問物商から大呉服店となり、町人から大名・大奥までをも顧客とした大店として成長していったのです。

 

また、商人の三井高利が伊勢松坂より江戸へ進出し、後に三越となる呉服店越後屋を江戸日本橋に開いたのも、延宝元(1673)年でした。やがて日本橋通りの西側一帯は大きな商店がならぶ繁華街となりました。

 

1600年代は、人や物が一気に江戸に集中していった時代でした。こうして塩瀬は、引き続き京都で商い続ける者と、新たに江戸で商いを始める者とに分かれたのです。

 

江戸時代後期、文化・文政の頃に、塩瀬五左衛門という当主がいました。塩瀬に養子に入り、当主となって大いに繁盛させた人物でした。詳しくは他のストーリーで述べますが、彼が記した『林氏塩瀬山城伝来記』(1838年)によると、江戸に下った塩瀬は、徳川将軍家御用達であるとともに、その菩提寺である芝・増上寺の黒本尊(くろほんぞん)の御用を承っていたことがわかります。
さて、江戸塩瀬のお菓子を通じて当時の江戸の文化に触れてみましょう。

 

 

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