1.千利休と塩瀬袱紗

【中世 室町〜桃山】お茶との出会い
1.千利休と塩瀬袱紗

お茶と織部饅頭、そして塩瀬袱紗。この紫の袱紗は現在の塩瀬のイメージカラーにもなっています。

 

これまで饅頭にフォーカスして林一族の足跡を追ってきました。

 

一方で、林一族は両足院の禅僧としての一面も持ちます。その禅僧文化は茶会を通して、点心としての和菓子の発展を促してきました。

 

塩瀬においても茶道とのかかわりは深く、現在茶道で一般的な袱紗、その正式名称は実は塩瀬袱紗といいます。

 

この塩瀬袱紗を開発したのが林宗味(りんそうみ)でした。桑田忠親編「茶道辞典」には次のように記載があります。

 

「林宗味(はやしそうみ)桃山時代の商人。京都烏丸に住む。塩瀬林逸の子孫に当る。紹絆の子。饅頭屋を業とし、秀吉の寵愛を蒙り、宮中にも嘉納された。塩瀬羽二重の袱紗を創業し、世に知られた。茶を利休に学び、利休の孫女を娶るという。」

 

 

昭和59年、塩瀬34代川島英子と袱紗商の宮井株式会社の武村氏が対談し、塩瀬の袱紗について触れた内容が社内報「みやび」12月号に掲載されましたのでここにご紹介いたします。

 

「林宗二の孫の代宗味は千利休の孫娘則を妻にした茶人で、お吟さまは義理の叔母、わび茶に一生を徹した元祖宗旦は義理の兄で表三世になった人でもあります。現在、茶帛は各流派により多少の違いもありますが、その多くは塩瀬地が用いられています。

 

紗寸法は、利休の頃五寸四方程でありましたが、茶頭として小田原に出陣する時、秀吉に従って旅立つ利休に、妻の宗恩がその四倍大ほどの袱紗を縫い、薬を包んで贈ったところから、この袱紗の方が面白いということで使用される様になった。

 

一般に茶袱紗は”ふきもの“として使用されますが、この場合は”つつみもの“として使ったことになります。また茶碗を受けたり、香合、拝見物などの下に敷く時に使う”しきもの“として使う出し袱紗もあります。宗味は、宗恩の袱紗を仕立方等で工夫改良し、塩瀬地を紫に染めて売出し、これが塩瀬袱紗であります。当時茶人間で好評を博し、その銘は「藤潟」と云い、
宝井其角の死後刊行された遺稿集『類柑子』に、「藤潟や塩瀬によするふくさ貝」、また川柳子は「服紗にも饅頭ほどのうまみあり」と、塩瀬の袱紗を饅頭同様に賞讃しています。」

 

 

紫色の高貴な色合いは、現在の塩瀬のブランドカラーとしても用いられており、紙袋や箱、サイトデザインの根幹として使われています。

お店に立ち寄られた際は、是非この紫の袱紗のイメージがどこで使われているかチェックしてみるのも面白いかもしれません。

 

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