1.宮内省御用達制度と塩瀬のエピソード

【近現代 昭和〜】饅頭の今
1.宮内省御用達制度と塩瀬のエピソード
宮内省御用逹許可書制度の発足は明治二四(1891)年で、塩瀬総本家は「明治三二年菓子商仁木準三と書かれており、菓子商としては風月堂の米津恒次郎氏と並んで最初でした(倉林正次監修「宮内庁御用達」日本の一流図鑑)。

 

ただし、明治五(1890)年に宮内省からのご注文を賜っており、また明治二三(1890)年に刊行された『東京買物独案内』という当時のガイドブックには、「京橋元数寄町林氏塩瀕」と掲載されていおり、そのガイドブックに紹介されている店の中で、塩瀬だけが宮内省御用達と書かれていました。宮内省御用達制度が発足したのは明治二四年ですが、塩瀬はその前年に刊行されたこの書籍ではすでに宮内省御用達と書かれていることからも、古くから天皇家、皇室に出入りしていたことは、広く知られていたことになります。塩瀬は江戸時代に引き続き、明治になっても御所との関係は深かったのです。

 

明治二(1869)年に宮内省は生まれましたが、宮内省では当初、優秀な商工業者は許可書の類なしで出入りが認められていました。ところが、宮内省御用達だと偽って宣伝し、営業する業者が氾濫してしまったために、その取り締まり対策として、明治二四年に宮内省御用達制度が設けられたのでした。これにより、宮内省への納入は厳しく取り締まられ、納入業者には正式に称標許可が与えられるようになったのです。しかし、制度が誕生し、取り締まりが厳しくなっても、「御用」の文字の濫用は減るどころか増える一方でした。それだけ「宮内省御用達」は社会的に信用ある資格だったと考えられます。

 

宮内省、明治天皇陛下と塩瀬との関係について、34代川島英子の饅頭屋繁盛記にエピソードがあります。

 

「宮内省御用達制度は戦後、宮内庁御用達と名を変えて、昭和二九(-九五四)年まで続きました。ところで、父・亀次郎は宮内省の大膳寮へよく召され、御菓子をおつくりしたり、祝宴の用意をしたりしておりました。明治天皇や昭憲皇太后にも可愛がられ、御用の済んだ後、よく昭和天皇のお相撲の御相手をさせられたと話しておりました。私が娘の時分は、お正月に宮中へ父とお年賀に行き、大膳寮でおせち料理をご馳走になったものでした。それほど、父の腕は信頼されていたのだと思います。
また、昭和二二(一九四七)年のことです。私が結婚したとき、終戦後でまだ物資が少なかったにも関わらず、父は小豆と砂糖を工面して二見ノ浦の祝い飾り菓子をつくってくれました。久しぶりに父が腕を振るった見事な御菓子を見た参列者の皆さん一同、おすそ分けを楽しみにしていたところ、「久しぶりにつくった御菓子だから明治天皇にさし上げるのだ」と言って、明治神宮の御神前にそっくり持っていってしまいました。皆さんはがっかりしてしまいましたが、父は明治天皇、皇太后を祀る明治神宮への崇敬の念厚く、御神饌を真心つくしておつくりしていたのでした。この亀次郎の心意気を受け継ぎ、現在も御神饌の御用を承っています。
宮内省大膳寮の方々と父は頻繁に行き来をしていました。大膳寮の方が、塩瀬に遊びに来られたときは、本格的なカレーライスやハヤシライス、ハンバーグから魚の下ろし方、煮物まで料理を実際に作りながら教えてくださったものです。懐かしく思い出されます。」

 

 

 

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