林宗二(1498-1581)は林家の中でも名が知られた学者となりました。
現在の日本史の教科書にも、林浄因の子孫で、印刷技術を使って日本で最初期の国語辞典「饅頭屋本節用集」を出版したことが載っており、日本の歴史に名を遺した人物となりました。
この本饅頭を家康は戦いの出陣の際に兜に盛って軍神に供え、勝利を祈願したとされるエピソードが「十方庵遊歴雑記」(1814)にあります。この饅頭は「兜饅頭」とも呼ばれ、現在の塩瀬でも今日まで愛され続ける逸品となりました。
また彼には「南都の書肆饅頭屋宗二」という記録があり、出版事業も行っていました。その出版書目には尚書・左伝・論語・史記・黄詩・蘇詩・杜詩・柳文などがあり、世に饅頭屋本として有名となりました。この時代活字の技術は一般的でなく、出版事業として活字印刷を商人として世に広めたのが饅頭屋宗二だったのです。林神社では饅頭祭りとともに、彼を出版の神様として祀っています。
彼の書物の中でベストセラー&ロングセラーになったものが、饅頭屋本節用集でした。節用集はイロハ引きの通俗国語辞典で、内容を天地・時候・草木・人倫・肢体・畜類・財宝・食物・言語・進退なとに分けて使用の便宜を考えたもので、文化史上に重要な位置を占める辞書です。江戸時代には180種以上も刊行され、庶民の間で節用集といえばイロハ引き辞書と考えられていました。山東京伝はいつもこれを机辺に置いて活用したといわれています。
宗二はさらに、国学(日本の国の成り立ちを研究する学問)にも通じており、儒者清原宣賢(きよはらのぶたか)から儒学を治めその高弟でもあったのです。
宗二を詠んだ歌が古川柳に残されています。
歌書に目を晒し古今の奈良伝授
歌学に凝って夜をふかす饅頭屋
古今伝甘口でない饅頭屋
また、沢庵(1573-1645)は、『玲瑠随筆』で儒者としての宗二に触れ、
「宗ニガイワク、貧ニハ成ガタキモノナリ。貧ニナル人ハ南都ノ宗ニハ儒者ナリ。林和靖ガ後ナリト云々一奇特ナリト云。此詞バマタ奇ドクナリ、サレバ古人有道ノ人ハ貧シキ聞へ多シ。(中略)欲アル人ハ多ク、無ヨクノ人ハスクナシ。貧ニナルコトハ無欲ヨリ出ル程二、貧ハ奇特ナリ。」
天正九年(1581)7月、そうして饅頭屋宗二は大教養人の生涯を閉じたのです。奈良興福寺の僧英俊の「多聞院日記」には
「11日、マンチウヤ宗二死了。天下無比之名仁、悲歎無限事也、八十四歳、昨日ヨリ霰乱心ニテ死了」
と記録されています。