3.印刷の神様となった饅頭屋宗二と饅頭屋本節用集

【中世 室町〜桃山】饅頭は広がる
3.印刷の神様となった饅頭屋宗二と饅頭屋本節用集

林宗二(1498-1581)は林家の中でも名が知られた学者となりました。

現在の日本史の教科書にも、林浄因の子孫で、印刷技術を使って日本で最初期の国語辞典「饅頭屋本節用集」を出版したことが載っており、日本の歴史に名を遺した人物となりました。

 

宗二は林浄因の七世の孫で、別号を方生斎、安盛といい、明応六(1497)年に生まれ、天正九(1581)年に没するまで、まさしく戦国時代全編を生き抜いたまんじゅう屋でした。戦国武将で奈良を治めていた松永久秀より、南都中の饅頭に関する販売権を一手に与えられていました。松永久秀もまた茶の湯を嗜む文化人であったのです。

 

さて、林宗二が考案した「本饅頭」という饅頭があります。「本饅頭」とは、林浄因が作った饅頭の味をさらに発展させ、小豆のこし餡に蜜づけした大納言を入れて、ごく薄い皮で包み、丁寧に蒸し上げた逸品でした。この時代になると、砂糖は依然貴重なものではありましたが入手して、良い小豆餡がつくられるようになったことがわかります。

 

この本饅頭を家康は戦いの出陣の際に兜に盛って軍神に供え、勝利を祈願したとされるエピソードが「十方庵遊歴雑記」(1814)にあります。この饅頭は「兜饅頭」とも呼ばれ、現在の塩瀬でも今日まで愛され続ける逸品となりました。

奈良塩瀬の当主であった宗二は、その一方で有名な学者でもありました。彼が執筆した「抄物(しょうもの)」(学問の為の参考書)は、筆写年代は天文三年(1534)から天正九年(1581)に至る半世紀にわたっていて、『杜抄』巻十七の巻末を見ても、没する約1ヶ月前の6月7日まで筆を執っていたことがわかります。

 

代表作に「饅頭屋本節用集」や「源氏物語」の抄物である「林逸抄」54巻があり、すべてが両足院に納められています。

 

宗二は三条西実隆(さんじょうにしさねたか)や牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)より和歌の教えを受けていました。この時代、学問というのは文学と非常に近く、特に「古今伝授」(今でいう歌を作る作法。古今和歌集の語句の解釈や独自の秘説などを特定の人に伝授すること)を町人が伝授されたことは宗二が初めてであったとされます。宗二の「古今伝授」は「奈良伝授」または「饅頭伝授」と呼ばれました。

 

森末義彰『東山時代とその文化』によれば、天皇、将軍みな歌をたしなみ、公卿、僧侶またこれをたしなむと記載があり、当時如何に和歌が教養として扱われ、公家に浸透していたかが伺えます。

  

また彼には「南都の書肆饅頭屋宗二」という記録があり、出版事業も行っていました。その出版書目には尚書・左伝・論語・史記・黄詩・蘇詩・杜詩・柳文などがあり、世に饅頭屋本として有名となりました。この時代活字の技術は一般的でなく、出版事業として活字印刷を商人として世に広めたのが饅頭屋宗二だったのです。林神社では饅頭祭りとともに、彼を出版の神様として祀っています。

 

彼の書物の中でベストセラー&ロングセラーになったものが、饅頭屋本節用集でした。節用集はイロハ引きの通俗国語辞典で、内容を天地・時候・草木・人倫・肢体・畜類・財宝・食物・言語・進退なとに分けて使用の便宜を考えたもので、文化史上に重要な位置を占める辞書です。江戸時代には180種以上も刊行され、庶民の間で節用集といえばイロハ引き辞書と考えられていました。山東京伝はいつもこれを机辺に置いて活用したといわれています。

 

宗二はさらに、国学(日本の国の成り立ちを研究する学問)にも通じており、儒者清原宣賢(きよはらのぶたか)から儒学を治めその高弟でもあったのです。

宗二を詠んだ歌が古川柳に残されています。

歌書に目を晒し古今の奈良伝授

歌学に凝って夜をふかす饅頭屋

古今伝甘口でない饅頭屋

また、沢庵(1573-1645)は、『玲瑠随筆』で儒者としての宗二に触れ、

 

「宗ニガイワク、貧ニハ成ガタキモノナリ。貧ニナル人ハ南都ノ宗ニハ儒者ナリ。林和靖ガ後ナリト云々一奇特ナリト云。此詞バマタ奇ドクナリ、サレバ古人有道ノ人ハ貧シキ聞へ多シ。(中略)欲アル人ハ多ク、無ヨクノ人ハスクナシ。貧ニナルコトハ無欲ヨリ出ル程二、貧ハ奇特ナリ。」

 

天正九年(1581)7月、そうして饅頭屋宗二は大教養人の生涯を閉じたのです。奈良興福寺の僧英俊の「多聞院日記」には

 

「11日、マンチウヤ宗二死了。天下無比之名仁、悲歎無限事也、八十四歳、昨日ヨリ霰乱心ニテ死了」

 

と記録されています。 

 

 

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