「物語 萬朝報」(高橋康雄著)には明治の塩瀬について記述があります。その中で塩瀬の主人がビリヤード場を経営しており、そこで開かれた親睦会で当時の塩瀬当主と9代目市川団十郎との親睦を深めたことがわかります。
「物語 萬朝報」より
「周六の遊び好きが首をもたげた。3時の締め切りの時点で解除の知らせがないことを確認すると、自然と足は数寄屋橋外の塩瀬菓子店舗が副業に営む球突場に向いた。この店の主人の仁木と三木愛花は旧知の間柄で朝報入社前から稽古に通っていたところだ。球突場は塩瀬の隣にあったが看板には「球突」と書いてあった。明治時代はたいていそう書いた。明治11年ごろに団十郎や菊五郎が球突遊びに熱中した記録が残っている。「三木君、そのうち球突屋の主人達の親睦会を開催し毎月二回くらい相会して手合わせするのはどうかね。費用や食品や商品を援助してもよい。」周六はくどいくらいこの提案にこだわり、今日また愛花に説いた。「それなら塩瀬の主人が発起人として動いているようです。すぐにまとまると思います。楽しみですね。」
塩瀬は京橋区元数寄屋橋町の菓子屋だが、隣に球戯場「信楽亭」を開いていた。周六や三木らの社交場である。玉突のとりこになった周六は、己が楽しむだけでなく、保養と風儀上から、世の紳士すべてに勧めたいと思い始めていた。塩瀬の主人にその役を担わせようとしていた。
近隣のめぼしい球戯場には神田淡路町の淡路亭、麹町元園町の玉楽亭があった。塩瀬の主人はこれらの主人に働きかけ、親睦会を開催しようとした。手合わせ会をやるらしいという噂はたちまち業界に広まり、赤坂の勇亭、面白亭、日本橋の呉服亭、神田猿楽町の千代田軒、新富町の瓢金亭、新橋の高山軒、浜町の東友軒、京橋の浪花亭、本郷東亭、内田亭、麹町平川亭などの腕ききの主人たちは、待ってましたとばかりに会の開催に応じた。
盛況のうちに終了すると、信楽亭主人は周六に深々と礼をした。