江戸塩瀬の菓子見本帳と木型の数々、細部まで魂が込められた菓子の数々は和菓子の奥深さを感じさせます。
現在、江戸初期から継続して江戸にて和菓子屋を営んでいるのは「塩瀬総本家」のみとなってしまいました。当時の塩瀬の商いを見ることで江戸の食文化を垣間見ることができるかもしれません。
さて、和菓子は味覚だけではなく、視覚でも楽しめるものでなければなりません。見本帳とは、御菓子のできあがりを絵図で示したカタログのようなもので、赤や黄、紫にと見本帳に描かれている御菓子の意匠は色鮮やかで、形も美しいです。
江戸塩瀬の菓子見本帳。美しい和菓子の数々は当時の職人の技を感じるとともに、視覚でも楽しめる和菓子の神髄を感じます
江戸時代末期には、饅頭の他にすでにこのように凝った御菓子がつくられていました。
江戸時代は、食文化が急成長した時代で、「食」に豊かさが生まれ、庶民が食生活を楽しむという風潮が見られるようになりました。数々の料理屋が生まれるなかで、料理本の出版も見逃せません。
江戸前期は、料理人が読む専門的な料理書が中心でしたが、後期になると一般の人が読んでも面白みのある料理本が数多く刊行され、評判となったのでした。ブームとなった『豆腐百珍』は100種の豆腐献立を紹介するとともに、料理のランク付けといった遊びの要素が盛り込まれ、人気シリーズとして続編や,「百珍物」というジャンルを生み出しました。
料理を絵図や文字で見るという楽しみまで出てきて、御菓子の見本帳もそうした料理文化の一つの形であったと思われます。庶民が楽しみ、ゆとりある生活を営んでいたであろう江戸時代の様相が見えてくるようです。
塩瀬には江戸時代の注文書が残っています。汚れてしまっていたり、くしゃくしゃの物も多いですが、大名家の正月祝いの献上、法事等で購入された注文書等が残っています。塩瀬の饅頭や和菓子は1600年代に江戸に出店して以来、上流階級のための限定販売から始まり、その後も朝廷や名だたる大名に愛されてきたという流れで商売をしてきました。京都・饅頭屋町の時代も一般庶民の口に入るのは難しかったと考えられます。
江戸時代は、庶民の食文化が栄え、町には飲食店が軒を連ねたと言いますが、1700年代初期は、江戸の町に饅頭の店売はほとんどなかったようです。それは、『反古染(ほごぞめ)』(発刊未詳、『続燕石十種(えんせきじつしゅ)』より)に、「享保の半頃迄、饅頭の店売などさして之無く、壱分饅頭、二分饅頭とて誂へしに」とあることでわかります。
饅頭を必要としたときには、御菓子屋にその都度注文するというしくみになっていました。同文献によると、あまり店売のなかった饅頭ですが、享保一五(1730)年の頃に象が渡来したことにより、安価な饅頭が一般に出回るようになったと書かれています。
なぜ、象の渡来が関係したかと言うと、象の食べ物が餡なしの饅頭だったからで、象の来日を機に象の餌用に餡なし饅頭をつくったことがきっかけになったということでした。
新興和菓子屋が江戸の町に軒を連ねるようになったのは江戸の後期以降で、従来、主に薬用として使われてきた砂糖が貿易で手に入るようになり、また江戸の食生活が発達するにつれて、徐々に食用として使われるようになったことが関係しています。
その砂糖の存在が和菓子の歴史を大きく変えました。装飾を凝らした献上菓子から大福、桜餅、柏餅、今川焼き、すあま、おこし、煎餅、栗羊羮や柚羊羮、芋羊羮などの大衆的なものまで、多くの種類が作られ、江戸の御菓子文化が花開いたのでした。
庶民行きかう江戸の町での饅頭商いはどうだったのでしょうか。饅頭は当時もっとも格の高い和菓子で、中でも塩瀬の饅頭は風味よく、蒸し加減ちょうどよく、さらに「塩瀬袱紗」を販売していたこともあり、上等菓子という位置づけでした。
上等菓子には当然、白砂糖が必要です。この時代、御菓子屋の命運を握ったのは、白砂糖だったのです。塩瀬でも当然、白砂糖をいかに確保できるかに商いの勝負がかかっていたのでした。代々、塩瀬の饅頭はこし餡を包んできました。こし餡はつぶし餡に比べて、手間ひまもかかり、皮を取り去らねばならない分、材料費もかかるので、当然コストも高くなりました。
1700年代半ば以降に町のあちらこちらで売り出された安価な饅頭は、中に詰める餡もバラエティーに富むようになり、種類も幾つか生みだされていきました。つぶし餡、小豆以外の豆を材料とした餡などが出回ったと推察されます。江戸後期ごろは「きんつば」や「どら焼き」の店もあったらしく、新興和菓子屋が安さで勝負をかけるなかで、塩瀬は塩瀬なりの饅頭商いを続けていったのです。