芝増上寺にて9月15日に執り行われる黒本尊祈願会に塩瀬が山菓子をご奉納いたします。
黒本尊は徳川家康公ゆかりの念持仏で、家康公出陣の際に戦勝を祈願しともに戦場に赴いたとされ、数多の危機を逃れ家康公が勝利を得ることができたのも、黒本尊の功徳の賜物であったとされます。
江戸時代後期、文化・文政の頃の塩瀬五左衛門という江戸塩瀬当主が残した『林氏塩瀬山城伝来記』(1838年)によれば、家康公に連れられ江戸に下った塩瀬は、幕府設立時から徳川将軍家御用達であるとともに、その菩提寺である芝・増上寺の黒本尊(くろほんぞん)の御用を一手に承っておりました。
「十方庵遊歴雑記」(1814)、そして「三縁山志」(1819)には、塩瀬の本饅頭を家康が兜に盛って黒本尊に供え、勝利を祈願したとされるエピソードがあります。「ある時、戦中にて黒き鎧の武者が獅子奮迅の活躍を見せ、苦境の味方を勝利に導いた。家康は真田伊豆守(真田幸村の兄で家康公方についた武将)か尋ねるも、真田は城を守っており戦場には出ていなかった。誰もが正体がわからなかったが、その後、家康公が黒本尊に祈願しようと見ると、発熱して汗が流れ、背中には鉄砲の跡があった。味方を勝利に導いたのはこの黒本尊の化身であったと分かり、何かご供養の品がないかと探したところ、塩瀬の献上した饅頭が側にあり、これを兜に供えて祈願し、ほどなく大阪城が落城し戦いが終わることになった。」この饅頭は家康公が大変お気に召し、兜饅頭とも呼ばれ家康公のみが食べられるお留め菓子として、現在の塩瀬でも今日まで愛され続ける逸品となったのです。
このエピソードから黒本尊に供える饅頭を塩瀬は将軍家から用命されていたのです。これがきっかけとなって江戸において塩瀬饅頭が寺院の山菓子として多く用いられるようになりました。
山菓子というのは寺院に供える饅頭のことでした。寺にはそれぞれ、「○○山△△寺」という山号があります。たとえば、浅草の浅草寺は「金龍山浅草寺」というのが正式名称であり、増上寺は「三縁山広度院増上寺」が正式名称です。そこで、江戸時代に寺で用いる菓子の事を山に供えるという意味合いで「山菓子」といったのでした。山菓子といえば饅頭と相場が決まっていて、現在でも仏事に饅頭を使うのは塩瀬の饅頭を供えることの名残です。
餡を皮で包むシンプルな饅頭ですが、その歴史、ストーリーは多くの人々に影響を与えていきました。
過去の足跡、思いが詰まった歴史というスパイスを感じていただくことで、いつもお召し上がりいただいている和菓子がちょっと美味しくなるかもしれません。