2.女官物語に見る明治大正の塩瀬 塩瀬主人の義気

【近代 明治】文明開化と◯◯◯
2.女官物語に見る明治大正の塩瀬 塩瀬主人の義気

明治大正時代の塩瀬の様子を記したものとして、大正元(1912)斎藤渓船著「女官物語」があります。

 

「近年、女官の中には、お公郷族出身でなくして、普通の士族の家から出た婦人もぽつぽつある。(中略)しかしながら女官の大部分はむろん京都出身である。それに常に宮中の別天地にある身の、東京などのことを詳しく知ろう筈もないので、生れ故郷の京都を以て何事にあれ天下第一と心得ておるのは無理のないところである。

 

で、女官たちは衣類調度の類、食味の果てに至るまで、京都を以て最上最高位の標準としている。(中略)こういう風で女官は時により、折に触れて、かつて口馴れた京都の菓子とか、果物とかいうようなのまで、取り寄せて珍重する風がある。菓子のごときも女官たちは、東京より京都のを好む。しかし、それは確かに東京風のと味わいにおいて食べ分けるわけではない。だから東京の菓子でも、京都製だといって差し出すと女官たちの多くは「そうと見えてお美味うおすな」というくらい罪がないのである。

 

 

元来、大奥に納める菓子は、東京では塩瀬と黒川が専ら御用命を承っているのであるが、どちらの菓子屋にも、その得意とするところがあって、塩瀬の物は黒川が真似出来ず、黒川の物は塩瀬が真似出来ず、といったようにたがいに得手不得手があったものである。

 

然るにあるとき、塩瀬の近辺に流行病が発生したことがあって、ちょっと塩瀬から、その製品の納入を御遠慮申し上げたことがあった。ところが大奥ではハタと御用に差支えを生ぜられて、今までの塩瀬のような製品を黒川から上納させようとしたけれど、各製品の特色があるので、とても黒川では塩瀬のようなものができない。

 

すべて大奥におかせられては、たいていの事は前例とは古習とかいうものがあって、俄に旧を捨てて新を採られるという事もない。旧そのままで何時までもその風に従うという習わしがあらせられる。これがまた宮中の御習慣であって、自然畏き辺りの大御心にも協わせられる美風である。

 

されば、かかる些細たる様子のことと雖も、その色合、味わいの加減、わかに変わるということは甚だ困る次第であるから、大奥でも多少御当惑あらせられておいでになるということをほのかに洩れ承った塩瀬の主人は非常に感激して、すべて特色とか家伝とかいって誇っているのは、これは私のことである。

 

今日大奥でお困りあらせられるというのを聞いて、そのまま知らぬ顔しているのは、如何に利益を専一にしている商人と雖も、それではお上に対して甚だ恐れ多い次第であるから、自分方から納入するほどの菓子の製造方法、加減、秘伝などという事はすべてこの際、黒川に伝授して、自分方と同様の物を上納してこそ、平素の恩顧に対し奉り万分の一の真心を報ずるところであると、塩瀬はこのとき黒川に対して悉く製造の方法を明かし、これに依って謹製してお菓子を上納したが、形状など、にそれはいかにも塩瀬製品そのままであったので、大奥でもすこぶる御満足であったとのことであるが、ここに唯一っどうも塩瀬のような加減にできなかったものがあった。

 

それは塩瀬の珍菓・紅白時雨羹であった。これは黒川において、塩瀬から伝わった通り、寸分違わぬ方法によって入念に製してみたが、どうも、どこの加減か知らぬが、如何に苦心をしても、ついに塩瀬のようなものはできなかったという。

 

なにはともあれ、この塩瀬の商人根性を離れた行為は、実に立派なものであると取沙汰されたというが、さもあるべきことだ。」

 

 

ここで「大奥」と表現されているのは、宮中の女官世界の事であり、「黒川」とは虎屋さんの事を指しています。この文章からも明治・大正時代には虎屋と塩瀬が如何にご用命が多かったのかが伺えます。

 

 

 

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