もっと詳しく知りたい方へ)聖一国師説について

【中世 室町】饅頭伝来
もっと詳しく知りたい方へ)聖一国師説について

 

昭和の中頃より、饅頭(まんじゅう)の由来には2系統あるとの文献が出始めていますので、そのことについて触れさせていただきたいと思います。

 

そのもう一説は

鎌倉時代中頃、四条天皇の仁治二年(―二四一)、後に臨済宗東福寺の祖となった聖一国師円爾弁円が宋より帰朝し、博多の承天寺に住したとき、茶店の栗波吉右衛門に宋で習い覚えた饅頭の製法を伝授し、吉右衛門は弁円に御饅頭所の看板を書いてもらい、「虎屋」と号して饅頭屋を開業したが、栗波家は廃絶しました。この看板は日本最古の菓子舗の看板として福岡市博物館にあったが、昭和十三年に東京虎屋の所蔵となりました(京都味覚散歩 臼井喜之助著)

とされるものです。この説には多くの謎があります。

 

①この饅頭の伝来について、触れている中世古文書、証拠とされる文献が一切残されていないということ(福岡市広報部への問い合わせにおいて中世古文書は確認できていないとの回答をいただきました)

 

聖一国師が中国で見たものを写し日本に伝えたものが記された書物「大宋諸山図(京都東福寺蔵)」には、小麦粉や小麦の製粉機について明瞭な記載があるものの、饅頭については一切記載がなく、そもそも饅頭が伝えられていないと考えられています。(昭和63年日本テレビで放映された謎学の旅日本最古のまんじゅう物語にて嵐山光三郎さんと東福寺 退耕庵僧 五十部泰至さんの確認による)

 

③聖一国師が直筆で書いたとされる「御饅頭所」という看板について、聖一国師との明確な関係性が見受けられないということ

 

④この時代には饅頭(マントウ)といえば中になにも入っていない点心の事を指すようになってきており、鎌倉時代に伝わったとされる十字のように、なにも入っていない饅頭(マントウ)の可能性があります。さらに、それまで甘い餡入りの饅頭は中国には存在せず、この甘い小豆の餡が如何に中に入るのか、そして全国に広まっていったかという過程を説明しておらず、今日の甘い餡が入った饅頭ではない可能性があります

 

⑤「御饅頭所」という看板について、そもそも当時室町では饅頭の呼称は御饅頭ではなく七十一番職人合歌に見られるように「饅頭、まんぢう、まんちう」であり、さらに饅頭を売る店は饅頭屋町という地名にも残される通り「饅頭屋」が一般的です。特に「御」という文字は公家に献上されるものにつけられることが一般的で、塩瀬でも天皇家とのかかわりが深くなってより、足利義政公より本饅頭所、また御饅頭所と名乗るようになったもので、輸入されたこの時点で御饅頭所という看板を聖一国師が直筆で残すということは、公家に献上される過程が省かれており、考えにくいです

 

以上その成り立ちは不明のものが散見されており、実証に至らない状況です。

 

また、塩瀬34代川島英子の尽力により、中国杭州市当局が日本側の古文書等の林浄因資料の正当性を確認し、また中国側の資料との整合性を確認したうえで、林浄因が日本の饅頭の祖であると認定を受けております。

 

現在日本人が慣れ親しむ甘い餡が入った饅頭(まんじゅう)は数多の古文書、数多の歴史が示す通り、林浄因の発明であると明確に言うことができるのです。

 

→次のストーリーへ

しおせミュージアム一覧ページに戻る