5.伊達政宗と仙台の塩瀬饅頭

【近世 江戸】和菓子革命
5.伊達政宗と仙台の塩瀬饅頭
仙台 伊達政宗公騎馬像

 

仙台ではかつて饅頭の事を塩瀬といいました。
この背景には伊達家と塩瀬とのストーリーがありました。

 

 

俳句誌『霧笛』平成3年12月号に仙台「明石屋」の記載があります。

 

「明石屋という御用菓子司で、先祖は惣左衛門信吉、姓は柴崎といい、播州兵庫明石左兵衛守の家臣で元和年中(1615-1623)仙台に来て御用菓子司となり、藩祖伊達正宗公に仕え明石の姓を賜わった。それ以後代々御用菓子所を勤め、十四代まで続いたが、昭和二十年七月十日の戦災で焼失し看板を降ろした。

 

明石屋の有名な菓子は塩瀬まんじゅうといって、伊達家のお殿様のためにのみ作られた”お留菓子“であった。このまんじゅうの由来には興味深いエピソードが秘められている。

 

伊達家四代君主綱村が江戸麻布邸に隠退してから、ことのほか日本橋の塩瀬まんじゅうを気に入り、ある日家来に命じて作り方を教わりに行かせたが、一子相伝という理由で断わられた。二度目も同様。三度目に切腹覚悟の白装束で訪れたところ、ようやく許された。早速国元に使者を遣わせ、明石屋三代目惣左衛門が江戸に上がり、塩瀬山城方より伝授してもらうことができた。

 

その際、藩主御用以外の他への寄贈や販売を一切しないという血判による誓約を、明石屋から塩瀬山城に提出している。つまり、必死の覚悟で習い覚えた塩瀬まんじゅうはお殿様一人のための菓子であったのである。

 

しかし、年月を経るごとに最初の約束は忘れられ、姫君や側室にも喜ばれる茶菓子となり、さらに幕府や公家、諸大名への献上品として重宝がられるようになった。作り方は秘伝中の秘伝で、代々明石屋当主が作っていたが、奉公人を雇うようになってからは「決して塩瀬まんじゅうの作り方を他言しない」という誓約書を取り、血判を押させる「御神文の儀」を行なう習わしがあったという。

 


明治九年(1876)、明治天皇が松島行幸の折、宿泊所の瑞巌寺住職が長旅路のお慰めにと明石屋に使者を走らせ、夜中に作ったものを暁方に持ち帰り、温かなところを朝のお茶で召し上がって項いたという。」

 

 

以上、この文を拝見して江戸時代の塩瀬まんじゅうのおいしさが上流階級に好まれていたことがわかります。

 

 

『饅頭博物誌』にも、仙台の塩瀬まんじゅうのことについて次のように記しています。

 

 

「参勤交代の影響で江戸の文化と諸藩の文化の交流が盛んになったので、地方にも上等ものが発達した。仙台城下の見聞記『仙台風』に、「落雁ばかりは仙台がよし。糒(ほしいひ、乾飯のこと)も名物なり。玉やの塩瀬は田舎には過ぎた物とぞ」と、この地の名物が記されている。塩瀬とはこのあたりでは饅頭の別名になっていた。
玉やとは玉屋三郎兵衛で、この人物は明石屋惣左衛門とともに仙台藩主伊達家の庇護を受けた菓子司である。

 

「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ、歌舞伎演目のひとつ)」鶴千代君後の四代藩主綱村のころ、仙台藩の面目を他藩に誇る名菓となったのは、塩瀬まんじゅうが幕府や諸大名への贈り物、あるいは公家、家臣への対外的役割を果たしておったわけで、伊達を競う家風は饅頭にも及び、仙台藩では優秀な饅頭を作る為京都まで菓子屋を特派して技術を学ばせたと伝えられている。これは藩主や藩士が京都のすぐれた饅頭の味を知っていたからであろう。」

 

 

このくだりについては、両足院の古文書の中にも「九郎右衛門弟子を仙台へ送ル」(1697年)という文書があり、「元禄十丑年卯月五日塩瀬九郎右衛門、奥州仙台南町玉屋三郎兵衛殿、京烏塩瀬家弟子右之通御座候」とあります。

 

 

これらのことから仙台藩の御用菓子商の明石屋、玉屋が競って塩瀬饅頭の製法を習得したことがわかります。

 

 

塩瀬饅頭をこぞって大名たちが用いていたことがわかるエピソードでした。

 

 

 

 

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