3.江戸ガイドブックにみる塩瀬

【近世 江戸】和菓子革命
3.江戸ガイドブックにみる塩瀬
江戸時代の名物ガイドブックには筆頭に塩瀬が紹介されています
江戸の町を、江戸城を中心において鳥瞰してみると、西に広がる山手の武家屋敷と、東の隅田川をはじめ数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別されます。江戸を象徴する町並の特徴は、川・堀の水路網であり、蔵造りの町並と言えるでしょう。

 

江戸は文化・文政の頃には、100万人を超える大都市になっていましたが、こうした世界でも有数の大都市になるために、幕府は玉川上水の開削を庄川庄右衛門・清右衛門兄弟に支持したのをはじめ、数々の土木事業を実施しました。玉川上水は承応二(1653)年に完成し、江戸の上水道が確保されました。また、関東郡代の伊奈家代々にわたる利根川の改流工事によって、多くの新田が開発され、江戸を中心とする水運網が大きく発展しました。

 

1600年代における精力的な土木事業によって、江戸は元禄年間(1688-1704)を過ぎたあたりから、都市としての賑わいが見られるようになりました。その一端を国学者戸田紺配によって書かれた江戸の案内書『紫一本』からみてみます。

 

「延宝二年といふと、江戸の文化が芽を出しかける時で、天和元年を去ること六年、元禄元年を去ること十四年前であるが、其時の江戸名物と云ふと、塩瀬の饅頭、金龍山の米饅頭、浅草木の下のおこし米、白山の彦左衛門のベらぼう焼、八町堀の松屋煎餅、日本橋高砂の縮緬饅頭、麹町の助三ふのやき、麹町のふのやき、両国のちゞら糖、芝のさんぐわん飴、大仏大師堂の源五兵衛餅であった。」

 

前時代に比べると軒数も品数も増えており、時代を経るにつれて賑わいを増していく様子が手に取るように書かれています。

 

当時でいう江戸ガイドブックである『紫一本』、『江戸図鑑』、『江戸名物犀子』、『続江戸砂子』、『江戸惣鹿子新増大全』、『江戸名物詩初編』、『江戸買物独案内』などに塩瀬のことが紹介され、塩瀬饅頭が江戸グルメとして根強い人気だったことが記されています。

『続江戸砂子』には、塩瀬鰻頭は、江戸名産の筆頭と書かれています。これらの文献を見ると、江戸時代、塩瀬がどれだけ大きく商いを行っていたかがうかがえます。

 

江戸開府にともなって江戸に進出した塩瀬は繁盛し、元禄年間(1688-1704)の頃は日本橋塩瀬、茅場町塩瀬、霊巌嶋塩瀬と三軒に分かれ、それぞれが繁盛していました。 京都塩瀬の最後の当主であった塩瀬九郎右衛門が残した文書には、寛政十(1798)年ごろ日本橋塩瀬、新堀塩瀬、京橋塩瀬が「江戸三家」と書かれています。中でも文献によく名の登場する日本橋塩瀬は200年近い間ずっと大店であったことが伺えます。

 

江戸時代後期、天保九年(1838)年刊の『林氏塩瀬山城伝来記』では日本橋塩瀬の名が消えて、霊巌島南新堀塩瀬、京橋塩瀬、数寄屋河岸塩瀬の名を挙げて「江戸三家」と呼ぶように変化があったようです。
常に業界一位の地位にあり続けた塩瀬は、一族のみでなくのれん分けをした店もあったようでした。

 

 

 

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